最近の被害状況について
被害の質、被害に対しての感じ方、意識が徐々に変化している。
被害経験者の多くの方から被害の様相の変化について聞いているが、ようやく自分でも理解することができた。
言うまでも無く被害とは害を被ることである。
この集団ストーカー被害に遭遇するまでは、おそらく身の回りには加害行為は皆無ではないにしても意識されることは少ないものと考える。
集団ストーカー被害のが開始されると、あらゆる自分を取り巻く事象、人間達が加害を形作るものと思わされる状態となる。
これこそが正に集団ストーカー加害者達の作り出したいターゲット被害者の状態である。
しかし被害は必ずしも加害者が作り出すだけのものではなく、自分自身の中で醸成され、増幅されるものであることも理解しなくてはならない。
仮にこのような考え方を理解していても、被害に遭遇すると被害の感じ方を切り替える事はなかなか難しい。
最近徐々にその事を被害遭遇時に感覚的に理解し、心理状態を自らコントロールするようになりつつある。
それでは被害とはどのようなものかと言えば、再三記述しているように毎日繰り返される意識的な音や光、人間の行動、痛み等の犯罪被害であり、多くの場合犯罪として実証するのが容易でないのはご存じの通りである。
テクノロジー系の被害である思考盗聴、音声送信、身体攻撃の一部を犯罪として実証するための詳細、被害者側から何をどのように操作しているかの具体的な犯行の実態を知る事は一般的には困難を伴うが、被害の記録は可能である。
しかし刑事事件にならない通常の一般的な付き纏い、待ち伏せ、騒音、光等の犯罪はある程度正確な実害の記録が容易である。
従って記録さえ正確になされていれば、法的な対応や訴求も可能になると考えている。
記録の方法は様々であるが、明確に証拠とするためには手書きの日記タイプの記録や写真、動画の記録、物証等が重要だ。
私はしばらく前までは日々出勤し会社で仕事をする生活パターンの中に居た。
今は求職状態となり、自宅に居ることが中心という生活へと変化した。
現在は企業内での熾烈な人間関係や顧客とのビジネス上のトラブル、業務に関する様々な加害から開放されており、被害の度合いが格段に異なる事も事実である。
当然生活環境の変化は被害に対しての感覚も変える。
その被害に対しての感覚の変化に対して加害のパターンも変化し、被害状況自体が変化した。
家の中に居ると家の中の軋み、家電製品の雑音、外部の音、例えば通行する車、人等の動きは私と妻の動きに同期していることも多い。
日常の就寝・起床、食事、トイレ、風呂、外出等の行動に合わせての加害、外出時の加害も程度としては目立った行動ではなくなりつつある。
それらに遭遇時もあまり意識することもなくなった。
逆に最近は車の通行、特に大型車両、バイクが家の前の道路を通る数は増えている。
また、近隣の加害者住民がひっきりなしに車のドアを閉める大きな音がする。
この騒音は次に述べる妻の被害の拡大を狙ったものかと思われるように行動に同期することが多く、寝覚めや就寝前に時間を合わせての加害がある。
余談になるが、ネットへの集団ストーカーについての書き込みや(創価)加害者の話をすると途端にこのドアの音が続けざまにするというまさに被害の意味付けを意図的に行うか不都合なのかは不明だが、恣意的なものを感じる。
私の方の身体的な痛みは軽度になって来たが、妻は最近床からの微振動により筋肉の固まりにより痛みを強く感じるという。
針灸、ヨガ等により緩和させるようにしているが、中々好転しない状態だ。
振動は床から伝わると言っている。
被害感に話を戻すと、被害感が減退するということは加害者には非常に困ることではないだろうか。
生活の中での日常的な状態から逸した状態を作り出すところがこの犯罪被害の存立する根底にある。
加害はそのような日常的な一般性を否定するところから出発する。
また、被害はそれらの加害を社会的に隠蔽する必要がある。
例えば、ほとんどの近隣の人間に外出の出会い頭に必ず遭遇するとか自衛隊の飛行機が自分を目がけて飛来することは到底ありえない事である。
被害は倫理観の欠如というより倫理観の根本が異なる加害者が実行している。
被害者はこのような非日常的な害を常に受けていると思い込みを強める。
その事により被害者がさらに僅かな加害や非加害的な事象や人の言動に反応することにより生活内での自動的な加害状態が成立する。
そしてこのことが最も効率的で有効な加害となる。
一度アンカリングを受けると、被害者はすべての生活の場における刺激、不自然な現象、自分にとり不都合なことが自分に向かって来るとの恐怖感を植えつけられる。
私もアンカリングにより、何でもない日常のことが全て加害ではないかとの疑いを持った。
このように被害とは、被害者個人の一定の閉じられた環境下で不条理な犯罪行為、被害と感じられる刺激を間断無く与え、その事が加害である事を知らしめ、被害者を追い詰めることにある。
しかし、もう一度最初に戻り被害とは具体的に何かといえば、とても第三者からは被害とは思えない実態がある。
恣意性をもつ被害者にとっての有形無形の刺激が被害の実態である。
このことにもう一度立ち返ると被害の増長を阻む鍵がある。
被害感が減退するとこの被害の拡大ループから抜け出すことが可能だと思う。
私の場合、最初は身体的な痛みがある場合でも、明らかに被害を受けていると考える状態に居る場合でも、全く被害とは別のことを考えるようにした。
例えば電気回路、時事問題、音楽のことなど自分に関心のある事柄をランダムに考えるようにした。
また、被害に遭遇した時にはその加害者や恣意性についての考えより、まずその事を無視するように、考えないようにした。
意思により被害事項について反射的に無視する事を続けた。
今はそれほど意識することもなく、無視できるようになってきた。
しかし、完全に被害を無視できるようになって来たという状況かはまだ判断できない。
状況や体調、外界の変化により心理状態は微妙に異なり、就業した時にはどのようになるかは不明であるからである。
加害者はそのような被害感の変化は把握しているようで、恣意性を強調し、被害者が意識するような加害を準備している。
例えば車の往来であれば、クラクションをわずかに鳴らすとか、大きめの音で走り去るなど証拠に残らないように、初期のアンカリングの段階とは異なる方法での加害方法をとる。
今までであればそのような行為に怒り、感情面で被害の余波を引き起こしていた。
心理的な振幅の収束には時間が掛かり、収束しない場合には更なる被害感を強める心理状態に移行していた。
現在は怒りをほとんど感ずることは無く、むしろ加害者の悲哀や愚かさのみを感じるようになった。
被害感の低減は考え方にも影響するようで、余裕をもって必要な行動を冷静にとれるようになりつつある。
しかし、私は決して被害は容易には無くならないと考えている。
寧ろその事が重要で、この重大な犯罪は必ず立証されなくてはならない。
当然、証拠取りは続けている。
できれば、証拠は監視カメラ・レコーダー等自動で取れるような被害を意識しない方法が好ましいと思う。
また、被害感の変化とは逆に被害そのものと言うより、被害の根絶に対しての願望が強くなってきている。
現在、この被害、社会悪に対してどのように対処する(闘う)方法を考えている。
この問題は被害者だけの問題ではない。
被害者は社会の現実が正しく報じられず、社会正義が歪曲させられている現実を理解している。
空理空論や単なる推測ではなく、現実の不条理を体験している。
この事実は非常に重要な告発者たる条件であり、権利でもある。
今回は私の個人的な被害感について記述させて頂いた。
被害感についての記述は非常にデリケートな問題で、多くの被害者の方はまた異なる被害状況や意見をお持ちかと思う。
被害に対してのミスリードを誘発する危険性もあるかもしれないが、この記述が被害を受けられている方々の参考になればと願う。
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